角兵衛獅子
Kakubeejishi
由来
角兵衛獅子の始まりは定かではありません。ただ、いくつかの言い伝えはあります。
①敵討ち説
常陸の国、水戸の住人で角兵衛という人が月潟村に移り住んだ。角兵衛はあるとき何者かに殺され、当時殺害者は足の指のない男ということだけしか判らなかった。というのは、角兵衛が殺される際、相手の足指をかみ切っていたからである。残された二人の息子角内・角助は、大衆の中で逆立ちすることを思いつき、「あんよ(足)を上にして、あんよの指のないものを気をつけて見れ」と歌いはやして、諸国を巡り歩いたと伝えられている。
②飢饉への対策説
川沿いの地であり、かつて沼地であった。年々周期的に襲う川の氾濫は、村民を飢餓と塗炭の苦しみに追いこんでいた。これを憂えた農民角兵衛が獅子舞を創案し、農業のかたわらこれを村民に教えこみ、諸国を巡業した。
他にも諸説あるということですが、現在主だったものはこの2つになります。
《 角兵衛地蔵尊祭 》について
角兵衛獅子の一党が古くから技芸上達と、旅巡業中の安全を祈願し、守護尊としてきた地蔵尊がある(月潟駅脇に現存)。その祭礼日である6月24日には、一党総て全国の巡業から帰り、その芸能を競演奉納して尊霊を慰めることを習わしとしていた。
角兵衛獅子は全国区で有名になっていきますが、旅芸人という形は時代と共に廃れていきます。
衰退
角兵衛獅子は、江戸時代が一番栄えていた時で時代の寵児ともされていたが、明治時代に入るや時代の流れとともに衰退。
幼童の旅稼ぎは、文明開花の社会の眼からは虐げられた子として見られるようになり、義務教育制の実施もまた、その存続を許さなかった。
しかし、月日が経ち、消えた角兵衛獅子を惜しむ人が現れます。
復活〈 芸妓さんによる 〉
新潟電鉄敷設(昭和八年)に功労のあった奥山亀蔵氏(山形出身)は、角兵衛獅子が姿を消したことを惜しみ青柳良太郎氏を説得し、考慮の結果、料亭の芸妓に着目し、小林信作(口上と太鼓)渡辺寅之助(小太鼓)道見豊信(笛)の三氏と語らい、往時の獅子舞から型を取り入れ始めることとなった。
だが、一方では、角兵衛獅子復活に対する批判は村に多く飛び交い、復活には大変な努力を必要とした。やがて、角兵衛獅子は、村社白山神社祭礼の日に境内で公開(昭和11年6月)後、夏には東京日比谷公会堂で新潟県人会総会が行われた折出演を依頼された。これが初公演でもあり保存会誕生でもあった。又、冬には弥彦神社の舞楽殿で新春の慶祝として獅子舞を奉納し、角兵衛獅子の復活を宣言した。
復活〈 子どもたちによる 〉
昭和34年、青柳良太郎村長は、角兵衛獅子の持つ高い芸能を子供たちに伝承したいと、当時月潟小学校江部保治校長の理解と協力を得て、父兄・児童などの了解を取ることができた。幸い父兄の中でも理解者があり、男女13名の児童が獅子舞の稽古に参加することとなった。今日の児童生徒による伝承の始まりである。
現在でも角兵衛獅子保存会に子供たちが所属して毎週の練習に励んでいます。
ただし、コロナ禍の影響で年に2回の公演の機会や練習の機会を多く失われています。
新潟市無形文化財指定
角兵衛獅子の持つ長い歴史と文化的価値が認められ、平成25年4月15日には新潟市無形民俗文化財に指定された。また渡辺寅之助氏が他界して以降、録音された音源にての公演を余儀なくされたが、平成27年3月に約40年ぶりに生演奏のはやしが復活した。
参考:越後月潟 角兵衛獅子の由来から一部抜粋